ただ、前作の「劇場版攻殻機動隊」の続編だということを匂わせず、
あたかも独立した作品みたいに告知していたCMは功殻機動隊を知らなかった
俺からしては騙された、はめられたという気がしなくも無いが
見てるうちにだんだんこの作品の奥深さにはまった。
あいつは行っちまったのさ…
乙
なんか信号がたまらなく好き。
攻殻のスレも見ようとしないし。
騙すとかってバカじゃね?
洋画の続編でタイトルが違っても文句言う奴なんかいないのに。
やっぱ国内の作品、アニメを見下してるって感じだな。
あとGITSや他作品を貶さないと持ち上げられなかったりする奴は糞。
糞ですか?
でも両方とも押井さんのあの重苦しい表現が好き
どうしたらいいか教えてほしいか
人と関わりを持った人形の物語に結末をつけろ
おまえが人形でいられる間に
犬からの手紙 第6号のインタヴューに掲載されているらしいが・・・
ブルーレイ買って見たが、よく解らん文字(製造番号?)と右に覗き込む人?がいることしか分からなかった
それお前だけだって・・・
こわっ
絶対に人物らしきものが見えた
瞳に映った人影はもしかして少佐なのかなぁ?
映画の最後に、少女が「暴れたら誰か助けに来てくれるって(言われた)」、
というようなことを言っていたのだが、少女達の中の誰が、そんなクレバーなことを
思いついたのか、ちょっと疑問に感じてたので。
いや単純に、向かい合った人形が二体あって、
人形の瞳にもう一体の人形が映ってるのかもしれないけど。
(その映った人形の瞳の中をよく見ると、さらに人形の瞳が映っているのかもしれない。
これが無限ってやつかしら。)
それとも、人形に人のゴーストが吹き込まれる表現なのかなぁ。
観てるんだけど、イノセンスが1番面白い。おれが正直よくわからんのは、
1ってそんなに衝撃的だったの?
やはりリアルタイムで観てないせいか、1を見てもなにも感じない。
で、逆にイノセンスは「なぜ人は自分の似姿を作りたがるのか」っていう
テーマが完全にわからない。あまりに押井個人的なテーマすぎる。
でもそんなことやっちゃうヤツって今の時代押井くらいしかいないから
やっぱり好きだな。
まるで自分がレスしたのかと思うくらい同意
>イノセンスは「なぜ人は自分の似姿を作りたがるのか」っていう
>テーマが完全にわからない。
死にたくないからじゃないかな?
死ねば何もかもガタガタになってしまうし、
そういうのがイヤだから子どもを作ったりして
自分の死後も秩序を保とうとしているのではなかろうか。
不老不死への憬れではないかしら。
逆に、自分の似姿のような人形や子どもを作って
それを虐待して、自分が神になったような全能感を持ちたいのかもね。
俺はおまえさんの最後二行が正解じゃないかと思ってる
>イノセンスは「なぜ人は自分の似姿を作りたがるのか」っていう
>テーマが完全にわからない。
もし、自分そっくりの人形を作ってくれるとしたらどうする?
俺は嫌だ、なんとなく気持ち悪い。
独裁者が自分の銅像などを飾るのは、権力を誇示するためであり、
超人気アーティストが自分の蝋人形などの制作OKするのは、ある程度理解できるが、
一般庶民の俺は、嫌だな。
ピントずれてる
「お前に」そっくりな人形ではない
「人間に」そっくりな人形の話をしている
「なぜ人は自分の似姿を作りたがるのか」の話じゃないのか?
自分の似姿であって、人間にそっくりな人形の話だろ。
自分の似姿であって、人間にそっくりな人形の話じゃないだろう。
人間は動物の無意識がうらやましい。
悩みも時間も何も持たない無意識を目指している。
その理想が人形。人形は人間の目指そうとする姿そのもの。
人間は人形になりたがっている。
空の肉体、でありまたしかし死体ではない。
そうなるためにまず、外部記憶装置にすべて転送して自分を空に
したい。
しなおした、これがわかりやすく(といっても当時わけわからんとよくいわれたけどw)
思わぬところでうけたが双方のファンにはどっちつかずなので食いつきが悪いw
攻殻で扱われたモチーフ自体はその後消費つくされたので今見てもピンと
こないというのはわかるが、モチーフ自体が古くなったわけではなく時代の変化で
受け手が感じる意味合いが変わった、それを時代にあわせて化粧しなおしたのが
SACで、そんなもん知らねとより映画としての物語によったのがイノセンス
確かにカットされてるねぇ。面白い部分もあるねんけどな。
文系でも誰でも分かるように描かれてある。
原作にはパート2があるのだけど、文系の自分には意味不明。
ただ絵が、信じられないくらい綺麗なので、保存はしてあるが。
現象には興味がある」っていう言い方が心底よくわかる。
この事をわかってない客も多いだろう。
ただ実際、この映画本編を見ていると、その押井の主張がよく出ているか
どうかはちょっと疑わしい。その手のテーマなら武の方がうわてだから。
連中に向かって「人間という現象」とかいう話をしてもムダ。その場で寝る。
その点では、たけしが羨ましい。役者が何も分かってなくったって、あとから
編集でどうにでもできるもん。
いや、アニメーターのせいとかいうより、アニメ自体に弱点なんだと思うけど。
その「人間の現象」ってのを描く事自体が。アニメでそれを表現するのが
ものすごくありえない望み、というかおっしゃる通り実写に勝てっこない点
だと思うんだよ。
たとえばエトロフに行ったシーンでお面かぶった子供二人がだまって立ってる。
これは止め絵だからアニメーターのせいじゃない。ただそれだけのスチールでも、
実写だったら良い効果になるんだけどアニメだとウザいんだよ。
もののけ姫でもウザいシーンがあったなぁ。森の木の切り株の背景画をFIXで
撮ってるカット。黒沢のもろ真似カット。
しかし押井はたけしと同じような表現アプローチを狙ってるわけではないと
思う。しかしじゃあそれが何なのかがイノセンスではいまいちわからなかった、
俺は。
ラストのフランス人形とバトーの対峙ってのが結局その凝縮された意味性なんだ
ろうとは思うんだけど、何を言いたいのかわからないんだよな。
とにかくDVDでオーディオコメンタリー聞いていると、思ったよりものづくりに
対して構築的で、スタッフに良い意味で仕事を与えられる人なんだなというのは
よくわかった。アニメ業界では監督が省略的な表現に走ろうとするとスタッフが
逃げていくと聞くしね。しかしそれは押井にとってジレンマにならないんだろうか。
だから、あんたの言う「ありえない望み」に挑んだのがイノセンスのテーマなんだよ。
あのタイミングでやっておかないと、二度とできないかも知れなかったからね。
「ウザい」「それが何なのかがイノセンスではいまいちわからなかった」というのは
あんた個人の単なる感想であって、客観的な根拠を伴っていないからアウト。
静止に近い状態の人体を生っぽく描く、という課題にはスカイ・クロラで挑んだ。
克服に成功したかどうかはあんたの判断に任せる。
>あんた個人の単なる感想であって、客観的な根拠を伴っていないからアウト。
主観だ客観だとかいう事はオレは会話する上で気にしないから。
主観的な言い方をやめるつもりもありませんので。めんどくさいから。
というわけで主観ついでに言ってしまうが、ハダリを解析しているあのおばさんの
声優、あの声優をチョイスしちゃうところに押井のセンスの怪しさを感じてしまう。
感じ出しすぎなんだ。それこそウザいくらいに。
あれこそ山口智子あたりにやらせとけばよかっただろう。
ああいうチョイスの要素が押井が言う「人形と人間から見えてくるもの」という
テーマを客のオレにわかりづらくさせてるんだよなぁ。
>主観的な言い方をやめるつもりもありませんので。
そんなら駅や地下街によくいる頭のおかしい人のように
好きなだけ独り言を喋ってるがいい
>>58
いやいいじゃないか、主観で言っても。
話を広げていこうよ。別におれはただ難クセつけてる
わけじゃなくて、女性の描写ひとつとってもにしても、
そこから作品批評が展開されるはずだと思ってる。
シンメトリーになっている事が表現として大事な所だと思う。
そういう点ではトグサとかゴーストダビングされてた女の子が生身の人間
だって事はアニメーターの腕でよくわかる。たしかにバトーと違って
表情がとても豊かだ。
ただここで1個問題がある。人間、サイボーグなどを描きわけるのに、
絵で区分けはされてるけど、声優が区分けされてない。
たとえばバトーもサイボーグにしては、声がものすごく人間味がある。
そりゃそうだよな、大塚明夫なんだから。
ただ、そういうキャスティングが押井が言いたい事のジャマになって
ないのか?ってのが気になる。
まず話の前提として、キャストは最初の劇場版やテレビシリーズから固定されてるから
変えられない。
次に、生身の人間とサイボーグが画然と区別されたものとして描くのは作品の狙いに反する。
あんたらしくない硬直した見方じゃないか。むしろ、人間とサイボーグが相互乗り入れして
見分けがつかなくなる状態こそイノセンスが描きたかった世界なんだよ。その状態において
「じゃあ人間が人間であることの根拠って何なの?」と問いたかったんであってさ。
外見がどうあれゴーストを持つキャラクターは人間の喋り方をする、という点で統一が
取れてる。あの洗練された世界に、ボコーダーを通したような機械音声は似合わない。
解消されてきてるしな。
エクスマキナあたりもがんばり感はあったが、あの
まばたきがどうもいかん。
ストーリー演出云々より、Pはパトのガンダム的デザインが俺的にだめだった。
GITSシリーズのが好きだ。
>>なんで第三者が
作品の顧客は常に第三者ですよ。
>>原作アリの作品にオリジナルを入れちゃいけないとか
入れる入れない、の二元をどちらが正しいなどと述べているのではない。文意を酌んでくれ。
バトーやトグサ、少佐は古くから人気を確立していたキャラだが、イノセンス以外の作品のほとんどで、引用文を多用することはない。
キャラとは役者である、とは板垣先生の言葉だが、わざわざキャラの言動ロジックをイノセンスだけのために組み替えた意義は果たしてあったのか。
>>80
どうして1か0で良い悪いを断言したがる、してほしがるんだろう。
もちろん映像作品において、基本的な評価というのは全体の完成度においてこそ言及されるべきであり、
動きの良し悪しは所詮その1ファクターに過ぎない訳だが、アニメに限った場合、その比重は他形態よりも重いと思いますよ。
>>81
先に書いたように、独自の世界観と絡めた(戦闘や電脳戦などSF的)迫力の無さが、1つの大きな要因として魅力の減衰に繋がっていると考えています。
原作は漫画なのでアニメーション作品として再現はできるでしょうが、同じものは作れません。
例とするなら「攻殻機動隊1」ですが、こちらは光学迷彩、義体、重量級多脚戦車、スナイパー、ヘリ、ハッキングetcなど、SF物として、戦闘物として、そして原作的なツボを抑え とても丁寧に描写していましたね。
到着地の描写に多大な時間を使うこともなく、スマートな作品であり数値で見た人気も高かった。
「演歌プロットに身体論くっ付けただけか。エンタメとしては落第点」と思ったのね
で、暫くするとまた観たくなってBD買って観ると、また色々な拘りが見えてくる
それこそCGと作画の使い所とか、ハダリの在り方と展開される持論の関連性とかさ
で、この段になって「何故もう一度観たくなったのか」に気付くわけですよ
なんかさ、そういう商売ってズルくねぇ?w
監督がやりたいコトやってるだけなのに買ってしまうという…
海外の名作映画なんかは割安なんでお布施も気軽にできるけど国産アニメは高くてなぁ…
既に人形使いと融合してるわけだから、素子にとって肉体は端末でしかない
今風に言えばクラウド人間
かつて人形使いが居た場所に素子は居る
「なんか難しいことを高速で理解できてる“感じ”」が味わえるからだろう。
キャラクターが電脳化した人物って設定だから、土台から生身の客に合わせてない、と
観る側にとっては、それ以上でもそれ以下でもない映画。深くない、むしろ浅い。
押井個人にとっては自分の脳ミソの中身を絞り出せたからスッキリしただろうが。
観る側の脳ミソは、押井個人の持つビジュアルと概念がリンクして繋がってるわけじゃない
だからビジュアルを娯楽で楽しめても、文字情報はそれ以上の考察を与えるもんじゃない
余計なモノ(セリフ・暗号)が映画の邪魔になってるだけという
考察できた奴がいたとしたら滑稽で、
こんな映画でわざわざ動画と音楽の間を縫って、何かを得るくらいならさっさと本を読めといいたいw
「得てる感じ」を得てる映画と言える。リンクしてるのは押井個人の脳内だけだろう
情報として捉えるなら
動画音楽と文字情報が独立し、並列して進行してる。と言えば聞こえはいいが
動画音楽と文字情報がお互いを殺しあって中途半端にしてる。と言ったほうが正しいように思う
ただそれは押井個人や観客にとってはデメリットは無いから問題はないかもしれない。
最初から深く付き合うつもりがなければ“感じ”だけで楽しめる映画だし、
押井個人も自分なりにいろいろと出しきれただろうから。そう考えれば面白い映画と言える
大まかに言えば、暴走したハダリの調査だけど
何故そこへ調査に行ったのかが分かりにくい
その幼女に
「魂を吹き込まれた人形の事を考えなかったのか!」ってバトーが怒る理由がどうしてもわからない
>>144
> 「魂を吹き込まれた人形の事を考えなかったのか!」ってバトーが怒る理由がどうしてもわからない
多分、押井にとって、(人間の偽物である)人形→(現実の偽物である)映画みたいな流れで、
「俺はグロテスクな偽物(球体関節人形)を愛するよ」みたいなことをバトーに言わせている、
押井の映画へのラブレターみたいな解釈も面白いかな、と思う
イノセンスみたいな映画を作っておいて、というか、だからこそ、こういうセリフが出てくるんだろうか、みたいな?
パンキッシュな話じゃないですかね
そのグロテスクを見に来るための見世物小屋が映画館の存在だとか
(後半のスケールのショボさや、もの悲しさもどことなく見世物小屋を思い起こさせたが)
スカイ・クロラは、普通のオッサンの説教だな、と思いながら見たけど
いよいよ保守化してきたか、みたいな(単なる個人の感想です)
人形にも魂が宿ってた。
バトーは両方に同情している
決して人形だけ同情してる訳じゃない
少女はそこまで頭が回らずに行動を起こしたから怒ったんだろう。
少女は仲間を殺したも同然だよ。
素で被害者意識で無知。だからイノセンス
視聴者ですら被害者扱いしてる
押井の意図はそんなところだと思うけど
人身売買組織に売られて人格崩壊寸前で助け出された少女に対して言うには
あまりにも観念的で空虚な台詞だと思ったな
被害者意識も何も実際犯罪被害者なわけで
そこまで考えろというのは酷な話
バトーの感覚は>>145のような感じだろうが
電脳化技術も無い21世紀初頭に暮らす一観客の感覚としては
あの場面であの台詞は観念的過ぎるという感想を言っただけなんだし
まず映画史に遺る一本。
本人の意図とは関係無く、無意識的な部分まで含めての表現に対する評価。
だからといって彼の他者への評価が当たっているかは別。
彼は割と感情的な人物で、自分の思いからしょっちゅう見識を偏らせ外す。
また成功によりエゴが肥大化、スカイクロラと立食師列伝で補完後は退行し糞映画を量産しています。
これは北野武も宮崎駿も同様。人は自覚無くしてはある到達以降、それ以上行くのは無理です。安心という堕落に感性を鈍らせてしまう。惜しいことです。
そういう意味では全ての作品はどこまで行ってもまずは自分のために作られているということ。
最後に。押井氏の話に「すべてはアニメになる」とありますが、アニメは究極的には実写映画にはなり得ません。
なぜなら、実写映画にはそこに意図しないものが、現実などが必ずと言っていいほど映るからです。アニメは描いたものしか映りません。作り物は所詮作り物であって、心の産物なのです。だから、その理論は破綻します。
では皆さん、ぜひ日本のテレビ的文化に流されて感覚を鈍くしてしまわぬ様に、繊細にたくさんの文化や世界観に触れてください。
書き捨てとなりますが、どうもありがとうございました。
普段からインセンティブとかコンプライアンスとかプライオリティって言葉を使うようなレベルな人専用アニメ
どうしても少女が善であって、オッサンを悪にしたいんだな
>少女はそれほど衰弱してないし立ち直りも早かったじゃん
あのまま救出されなかったら確実に廃人になるわけだが
まだ猶予があるなら自分が助かる事よりも人形の気持ちを考えるのが当然
こういう事?
よほどの精神力がないと無理だろ
ロクス・ソルス社の検査部長が殺された現場で、鑑識の親分が「○○のパーツが足りねえからきた」って言ってるんだけど、あれなんて言ってるんだ?
イシカワも直前にたぶん同じこと言ってるんだけどよく聞き取れないのと意味が判らない
「オロク」って聞こえるんだけど当たってる?仮にそうでも意味が判らない
誰か教えてくれないか?
「おろく」・・・ 死体の意。「南無阿弥陀仏」を「六字」と言った事から。
神山監督の攻殻ではまったやつらだと賛否まっぷたつだろ
しかし
けいおんのリピートには苦言、そして批判しか言わないだろ
なぜ3回見ることを強要するんだと
しかしなんだねこれだけ中国が力を持った次世代見せられるとなんか萎えるな
なっちゃいそうでこわい
なんかの電子機器を使って互いのコミュニケーションを図る今の若者に一言物申す
意味合いで制作したんだろ。
相手に告白するのも携帯で済ます今の現代社会の若者の滑稽さを映画に
したんであって、劇中出てくる小難しい身体論は、作品のディテールアップに
利用されてるだけで、それこそ大した意味があるようには思えん。
きっと監督のことだから、全てのセリフに意味があるとは思うが、そこに
注視するのは、監督の仕掛けた罠にはまるようなもんだ。
監督にしてみれば劇中のセリフが難解なら、今のネットに溢れるの書き込みだって
難解に思えるって事を言いたいんでしょ。
バトーが危険を冒してまでロクスのプラントに潜入して素子に出会えたのも、
今の若者に向けて告る時くらい自分の体を使って相手に直接告白すれってことを
言いたいだけであって、こんなに分かりやすい映画は無いと思うが。
お前らの書き込み読んでるとなんかズレてるように思うのは自分だけか?
まだ身体論に絡んだテーマに拘り続けるなら、この先ずっと答えが出ないと
思うぞ。
携帯でも電話でも、告白するだけマシ。
滑稽とは思わない。
平安時代は和歌のやりとりだった。
それに少佐はもう身体が無いし、
バトーも似たようなものだぞ。
そういったことを公言するようになったのはスカイクロラ以降、
それ以前はむしろネットとか興味ないというスタンス
公開直前のスペシャル番組かニュースのインタビューで聞いた覚えがある。
スカイクロラは別の制作動機。
イノセンスは自分の体を意識しなくなった若者に向けて
制作したと言ってるのだけは覚えてる。
ネットには興味無いだろうね。ネットをしてる若者に批判的立場で制作
してるんだから。
イノセンスの情景を観るといいよ
結局押井が自分の犬を出したかっただけの映画だよね
だってさ、脳核がなかったら電脳だけじゃん
それはさすがに全然違うと思う。
人間の機械化に否定的な映画ではないよ。
冒頭の文章について、押井は最初に結論を持ってきたと言っている。
「われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」
また、機械化は必然であり、そもそも人間自体が機械であり
肉体に特別な価値などない。自分もこれからどんどん機械化して
サイボーグになりたいと押井は発言している。
(劇中でも何度も強調されている)
その極まった状態が素子で、
ようは愛情なんて思い入れの問題だから、機械だろうと、データが相手だろうと関係ない。
なんでも同じだし、想いさえ持てればそれでいいんだ。その気持ちは本物だ。
っていうことを言いたい映画だよ。
肉体が尊いとか人間らしくあらねばとか
そういう考えをぶっ潰すために作ってる。
なのに、肉体が大切みたいなメッセージを勝手に生成してしまったということは
204さんにそれだけ強固な思い込み
(そういう説教がほしいという気持ち)があるってことで、
そのような映画として自分の人生に使うのは、まあ構わないんだけどさ。
押井がテクノロジーの進歩を全肯定し盲信してるなら何故あんなにも登場人物が揃いも揃って全員不幸を絵に描いたような辛気臭い不機嫌そうな死人みたいな顔してんだ?押井が思い描く理想の世界なら幸せの絶頂みたいなキャラがいても良いと思うんだが
人間の機械化は、単に当然そうなるってだけのことで
それが幸せに繋がってるわけじゃないだろう。
生身だろうがサイボーグだろうが、生きるのは辛いことである。
使える技術は全部使うが、これといって進展は無いし、問題も解決されない。
科学を用いた人間が、過去の人間より幸せかどうかは怪しい。
しかし、人間は欲望のために使える技術は必ず全部使っちゃう。
それは「当然そうなる」し、「それを咎めることに何の意味もない」。
科学的な愛が幸せなわけではない。
今後必ず、愛は科学的になるのであり、それは原始的な愛と何も変わらない。
当たり前のことを当たり前として肯定していると思う。
それは現在の我々の話でもある。
愛の対象が犬でも人形でも、メールだけの相手でも、
もう死んじゃった相手(記憶の中の情報だけの相手)でも、
単なるプログラムや擬似人格が相手でも同じこと。
人間を愛するのだって、結局それらと変わらないんだから。
愛する人を喪って辛い現実を生きるバトーにとって、
そんな想いの価値を確認できたことは小さな(でも確かな)救いだったと思う。
ちょっとは脳核が残ってるかもしれないバトーの愛の物語でしょ
俺はそう理解した
映画は、事実と仮説を積み上げたあと、
最後の価値判断はお客さんに任せているよね。
ただ、「こうあらねばならない」みたいな良識的な押し付けは
あの映画とは反するってことだけは言いたかった。
どちらかというと、どうであってもいいんだよっていう
多様性を認めて楽になる方向だと思う。
近作だとAVALONも、ゲームへの逃避を否定しない
それも立派な情熱だっていう姿勢だった。
たぶん、押井が学校の先生みたいなお節介
「こうしてみたらどう?」を言ったのは、
スカイクロラの最後のモノローグが唯一で、あれが精一杯なんだろうと思う。
立派に生きろみたいなことを、とにかく言わない、
若者のプレッシャーになるのを避ける作風は
宮崎駿と正反対の部分だと感じる。
「命令も強制も嫌い」だからなのか。
あるいは「映画館は行き場の無い人間が来る場所だったし、それでいい」
という、押井自身の映画観が関係しているんだろうか。
基本的に、人間は愚かしいものだという出発点だからなー
生きてるだけで愚かなことは一通りやっちゃうものだ
伝説の中で作られた、英雄や偉人たちの水準では生きられん
むしろ作風は真逆だよね。押井作品から受ける印象は価値の多様性の否定だし表現の幅を狭めてる。だから押井作品を観てる時は物凄い窮屈だし何かにがんじがらめにされてるような気分になる。押井自身が正しいとする物以外は全否定されて魂が解放されない
バトーは、意識だけの存在になった素子を守護天使と呼びつつ、
ラストでは、肉体をもつ犬を大事に抱えている
本音では、素子に肉体を持ってほしいと思っているわけだが、
それが本当に正しい考えなのか迷いがある
迷いがあると辛気臭くなる
迷いがないと活き活きとする(素子とか犬とか・・・価値観の両極)
そういういくつかの価値観を提示して、
答えは主張せずに観客に考えさせるのが、押井の作風でしょ
つまり平たく言うなら自分の意見を持ってないとも言える
押井監督としては、
脳と体は、切り離せるものではなく、どちらも相互に依存し合って、自己同一性が生まれる
現代の多くの人は、自分自身とは脳の中の意識だと思っているようだが、それは間違いである
脳と体どちらがその人の本質か、(本来不可分なのだが)あえて選べと言うならば、むしろ体の方が重要である
だから、自分は空手をやって、体を鍛えているんだ、エッヘン
みたいに思っているらしいよ
久々に少佐と共闘して、ハッスルした後だけに
なんか物悲しい気持ちなんじゃね?
ネットにアクセスしたときは、いつも側にいるって、なんだよそれ
離れていても心と心は繋がっているから、それでいいわよねーってことかよ
心だけかよ
だいたい、人形も人間になりたくなかったって言っただろうって、意味分かんねぇ
俺も被害者の女の子、怒鳴っちゃったけどさ、その言いぐさはないよな
自分こそ、人形に自分の一部を書き込んで乗っ取っていたじゃん
マジ、勝手な奴だよ
女ってみんな勝手だよ
寂しくて犬抱っこしている俺の気持ちも分かってくれっていうの、ホント
なに、この人形
うざっ
こっち見んな
みたいな感じだと思う
押井にとってアニメのキャラクターとは人形そのものではないのか
押井にとって映画を作るという行為は人形ゴッコの延長ではないのか
キャラクターのリアル化でわかりやすいのは、パトレイバー1
OVAからキャラをリアルに変えて(製作会社も)、パトファンに不評だったが
押井監督は、OVAのキャラではストーリーが成立しないから変更したそうだ。
大友克洋などは単にリアルな絵が好きなだけでその為にアニメを利用してるだけで何故アニメでなければならないのかと言った事まで考えた事もないし全くの無自覚
故にアニメ技術の表面的な表現に終始するのみで映画になってない
初めて2を見たときは誰こいつ状態で笑ったけど
2の絵柄ならわからんでもないが、別に最初のやつはリアルってわけでもないよ。
ほうれい線描いたからってリアルになるわけでもない、あの時代なんか流行ったというだけ。
原作の大テーマ「身体の拡張は精神をも拡張させる」が前提にあって、
原作1は高次の身体を手に入れたら、精神も高次に至ることができるかも。って話。
イノセンスはサイボーグの体に入った時点から、精神の異形化は始まっている。
って話なんかな?
ラストあたりのは
・人形になりたくなかった少女 → 異形化の拒絶(=ヒトらしさ)
・人形になってしまった少女(=第五段階)(=素子) → 異形化の受け入れ。
・心情的に人形になりかけてることに気づくバトー → とまどい・迷い
・人形側だって、ヒトにされるとしたら拒絶するはず。
→ 異形化への拒絶感は変化に怯えてるだけ。ヒトらしくある=尊いとかじゃない。
・人形を抱く人間、イヌを抱く人形の相似から何かを感じ取るバトー
→ 人形であるという自己認識の受け入れ?
てなところじゃろか。
いいと思うけどなぁ、押井は自分のやりたい事をつっこんでるだけだから、
一緒に考えると何かすごいこと表現してるような感じになっちゃうw
それありきで評価されてるから仕方ないんだけど。
異形化とか何かわからんし、押井は高次の精神なんて信じてないと思う
やりたい事をつっこんでるだけってのも頷ける部分あるけど、
骨子部分のポイントの押さえ方がえらい的確なんだよね。
完全に別々ってのもまた違う気がする。
まるで原作者が自ら書いたような「らしさ」があるから、ARISEと
同じように原作者のアイデアがベースにあって、そこに押井監督が
肉付けしまくり…みたいな形なんかな?
気がついたらDVD買って定期的に見てる
昔と違って今は面白い
多いというのも特徴だな。
悩みから解き放たれるとか、結ばれるとか、打ち勝つとかはないから感動して
泣くようなことにはならない。
好みはわかれるだろうな、俺はすごい監督だと思ってるけど。
この映画も前作と繋げて見ないとわからない
パトレイバー1の天使としての帆場と鳥の失楽園とそれを取り戻す方舟の天上登りが
パト2の魚としての回廊と飛行船に分裂する
帆場の失楽園はイノセンスのミルトンの失楽園に繋がる
攻殻1は香港を水没させる中間部分を描きたいから作られた映画
記憶に関する映画
攻殻1は勘違いされているか新しいステージに登る喜びを謳った映画じゃない
大人になる新しい存在を歓喜する映画ではなく正反対にメランコリックなノスタルジックな子供の立場を懐かしむ映画
だからこそ水没した香港の絵を全ての力に注ぎ込む
原作はバトーは気のいいあんちゃんで素子とバトーには恋愛関係なんかないし
素子と人形遣いの融合は果てしなく軽い
また最後の義体もゴリラと少女で違う
それはロリコンではなくて映画は幼児に遡る自分にとってのかけがえのない過去を愛惜する物語だから
赤ん坊の頃をひたすら懐かしむそれを価値を高めるための映画だから
攻殻1の素子はひたすら赤ん坊
胎内回帰する赤子のイメージでしかない
あるいは水槽の中の脳
海に潜り香港の街を潜りこれから失う過去を自分の幼児時代をいかに大切に思い涙を流し悲しむか
引き離されるバトー達との過去を愛し惜しんでいたかを描く
過去を残していかざるをえないものへの哀しみを描く映画
日本人としての過去たるアジアを描いた映画だから
そのために香港を水没させた
攻殻2たるイノセンスはバトーの側から失った素子への愛を描く映画
人形遊びは育児の真似事じゃない
育児こそが人形遊びの続き
育児こそが人造人間を作りたい、完璧な人形を作りたいとの夢を手っ取り早く実現する最適な実験の一つに過ぎない
人間は人形に過ぎない
しかし人形遊びにも上下貴賤がある
汚い欲望にまみれたロクス・ソルス、セクサロイドを使う金持ち、やくざ、そして人形を破壊し痛めつけて自分は人間でいたいとかいう女は死ね
あれが欲しいこれが欲しい
私のことを本当に思ってないでしょうとか言い出すようになり我が儘言って男を困らせるようになる少女なんかより
面倒くさいことは言わない素子や犬の方がかわいい
水没した香港の代わりに可愛い犬の世話を全力で描きたいからでっち上げた映画
意識にまみれた人間という人形より犬のが可愛い
それを二時間描いた映画
ロクス・ソルスやキムや少女よりは面倒なことは言わない人形や素子や犬は絶対に可愛い
そういう歪んだ愛を描くバトーにとってのかけがえのない素子への愛を描いた映画
攻殻1は脳や赤子を描いた映画なら攻殻2たるイノセンスは脳の先についている身体と動物を描いた映画
ハダリの花は身体であり意識を必要としない身体=動物
汚ならしい自意識に満ちたロクス・ソルスや自分は人間でいたいとか言う少女みたいな余計な意識を排除して
いかに素子のかけがえのなさを訴えるか
人形=犬=素子として、素子への絶対的な愛を讃える映画
人間は本当は自分は人形のくせに汚ならしい自意識を持ち込み人形を汚す
そんな奴等より素子の方がイノセンスで可愛い
そんな悲しい男の恋の物語
頭の悪い質問ですまん
人が人形をどう見ているかと、母親ごっこは層の違う話なので
単純にどちらを重視するかとい話でしかないけど
ヤクザの組長がなんであんな不気味なダッチワイフとセクロスすんだよw
今の萌えキャラだって十分すぎるほど不気味だぞ
あんなもんに入れあげてるくらいだから、未来には何が流行るか分からん
実は萌キャラに入れあげるオタクたちを批評していた・・わけはねーが人形萌えは昔からいるからな
限りなく人間に近い無機質な人形に萌えるヤツが
原作の元エピソードは知ってるから、筋立ては理解できるけど、何を表現したかったのかが
理解できない。
これだけ見ると、監督が無能だとしか思えない
内容については考えたら負けだ
それらはすべて「押井の屁理屈を見させられる」ことから逃れるための自分設定である。
でもグラフィックは綺麗だと思う
続編であると宣伝しなかった割には前作視聴済みでないと分からない描写も多いし
(攻殻機動隊を視聴済みならニヤリとできる、ではなくしてないと意味不明な箇所が多い)
それ以外のも説明不足と過剰な説明が混在しててバランスが悪いと感じた
押井の趣味の犬も時間の無駄だと感じるほどくどくて用語出来ないし
総評だとどういう層へ向けた作品なのかもわからないくらい中途半端だと感じた
「何故(BSアニメ夜話で)取り上げるのか理由が判らない」と酷評され、司会がほとんどのメールがこういう意見
といった後、会場の客に「内容が難しいか」と問いかけると、ほぼ満場一致で手が挙がってて
プロデューサーの石井光久が頭抱えて「帰りたい。面白さを説明したい」と言ってたのを見て
監督なら兎も角プロデューサーがこれじゃどうしようもないなと思ったら、結構評価も高くて
ヒット作も多いプロデューサーだったのが意外だった
最後素子が帰って来た時は水を得た魚の様にウキウキだしw
リアタイで品川IMAXという最高の条件で観た俺としてはイノセンスの見方は、
・まず映像を楽しむ。Blu-rayのアブソリュートエディションなんか再現とすげえ良い。
・「ブレードランナー系映像作品」として楽しむ。
ブレードランナーの二番煎じは星の数あれどみんな世界観をパクっただけで越えるものが出てこない。
ブレードランナーヲタはいつも「良品の二番煎じ」を探してる。イノセンスは「押井が妙に作家性を前面に押し出したこと」が、作品にとっての主題というよりディテール、装飾として見ると小気味良い。
「なんか難しいことやってんなあ」という雰囲気がブレードランナー系を求めるヲタを満足させてくれる。
アニメにも関わらず日本SF大賞を獲っただけある。
・続きものとしての鑑賞に耐える。
これは攻殻2なんだと思いながら観ることも可能で、その場合続きものとしての品格は雰囲気が最高だと言える。ハリウッドの娯楽作品ではなかなかこういった方向性で続編を作ることはできない。
本家ブレードランナーですら続編は大味になってコケてるし。
最後に、
・押井は何をしたかったのか。
ゴースト(自我・自意識)のありようとはなんなのか、ってことでしょ。まああんまどうでもいいな。
ディテールとして作品に功を奏していればそれでいい。